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Passo sulla luna


寝苦しい夜が続く、生まれ月は夏だが至って暑さには完敗である。寒さは衣服を重ねればなんとかなるが、暑さだけは自身で防ぎようもなく唯々手をこまねいているだけだ。熱帯夜……いつまで続くのだろう、就寝前にエアコンのタイマーをセットし眠りに就く、タイマーの時間は2時間と決めている。生来エアコンは苦手である、子どもの頃は扇風機だけで充分凌げた、だがこのうだるような暑さは扇風機など何の役にも立たずエアコンと扇風機併せ渋々使っているというのが実情。しかしそのセットも虚しくタイマーが切れると同時に寝苦しさが再び襲う、寝返りをなんども繰り返している内に自ずと目を覚ましてしまう。むくり身体を起こしベランダに出る、そこから眺める景色は漆黒の闇などなく煌々と照らす街の明かりが瞬き、まるでそこはイカ釣り船のような世界が蠢いていた。
夏の夜空を見上げた、星は微かに光を放ち宇宙の果てを淀みなく流れている。眼下では車のエグゾースト音が過不足なく耳元を通りすぎていく。ベランダからの満月、ちょうどその日の月齢は満月のピークを指していた。17世紀のゲルマン文化に於いて月は冷たい処女、その一方で淫乱と、ロマン主義的叙情性に結びつけ喩えられていた。彼らの神話はなんと官能的だろうか、それは冷たくそして暖かい審美の鑑識によるものなのかもしれない。

森に闇が訪れれば木々の隙間から月明かりが陰影となって夏草を照らす、方や眠らない街のビルの谷間に寄りかかるようにぽっかり月が浮かんでいる、月明かりはビルが林立する都会には似合わない。深閑とした森の中で闇は本領を発揮するものだ、音も無く静かに迫り来る闇……子どもの頃は森の闇がとても怖かった、全方位が闇に包まれ身動きひとつできないからだ。だがその闇も時間の流れの中で研ぎ澄まされて行き、見えなかったものが視えてくる。闇の中に明かりがあることをその時知ったのだ。だがその体験も虚しく、大人になると忘却の谷間に置き忘れてしまうようだ。街の電飾や外灯そしてビルの照明の明るさにすっかり慣れ、人間が本来持っている五感という武器も錆び付き、本能が失われていく。
月夜の晩に、道端にできた水たまりに月が浮かび暫しそれと戯れる。手の届かない月をこの水たまりで掬うのだ、掬っても掬っても掌からこぼれ落ちる月、そして最後は足で月を踏む、月は一瞬弾かれるものの38万キロの彼方にある月は何事もなかったように宇宙の大海を静かに泳いでいる。今思えばたわいもない無邪気な児戯だが、それも遙か昔のこと。
森に雨が降り、やがてその慈雨は大地に吸い込まれ森の養分となって生き物たちに潤いを与え、謎と魅惑に満ちた循環が我々の足下で行われているのだ。
そんなことをつらつら考えながら寝室に戻った、だが眠れない、汗が身体を占領し睡眠の邪魔をする。
仕方なくラジオを付けた、不眠に悩まされ時に聴くのが”ラジオ深夜便”、深夜に聴くには調度良い番組。他局は音楽もパーソナリティの声もかまびすしく聴くに堪えない、唯一この番組だけは睡眠導入剤のように心地よく安眠を誘導してくれる有り難い番組である。その時聴こえてきたのが闇にまつわる話だった、語り手はナイトウォーカー体験作家の中野純さん。ナイトウォーカー……聞き慣れない肩書きである、本業は夜の山や街をテーマにエッセイなどを書く文筆家とのこと。ここ最近深夜に散歩するナイトウォークが静かなブームを呼んでいるとか、その中心的人物が中野さんらしい。中野さんが暗闇に夢中になったのは、電車の乗り換えを間違え終着駅に着いたのが高尾山近くの駅だった、何を思ったか中野さんは真夜中の高尾山を登ったという。昼間では感じられない木々や土の匂い、そこに棲む生き物たちの息遣い、東から昇る光りの束が徐々に単調な色あいから色彩豊かになっていく様に感動したのだという。それからというものナイトウォークに病みつきになり、闇を求めて歩くのだという。
4回シリーズの最後しか聴けなかったが、睡魔どころの騒ぎではなく耳を澄まして聴いてしまった。
闇と言えば、ダイアログ・イン・ザ・ダークがある。1988年にドイツで、哲学博士アンドレアス・ハイネッケの発案によって生まれたイベント、世界の130都市で開催され、700万人以上が体験したと言われている。尤も中野さんが提唱するナイトウォークとは趣を異にしているが、限られた空間の中で鳥のさえずりや川のせせらぎ、水の質感、葉を踏む感触、果ては擦れるグラスの音等々を完全に光を遮断した空間の中で体験するのも、ある種五感を研ぎ澄ますには打って付けの実験かも知れない。会場の暗闇は人間の行動にどんな変化が現れるか、距離が狭まる中で初めて人間と人間が触れあう、人がいることを認識しつつも驚くに違いない。夏の名物”お化け屋敷”がそうだろう、とは言えお化け屋敷はゲーム性の高いイベント故ダイアログ・イン・ザ・ダークとはちと意味が違うか。
中野さんが言う闇の世界の心地よさ、それはアンドレアス・ハイネッケが唱えるものとは全く違っていた。中野さんは日本の闇は柔らかいと明言する、たとえば茶事に参加すれば狭く暗い茶室で主人が茶釜の湯を沸かすと、立ち所に温暖で湿潤な柔らかい闇が出来上がるのだと力説する、実に風流だが庶民の範疇にはほど遠い。そこで中野さんはその感覚を風呂で体験できることを教えてくれた、電気を消して風呂に入るのだそうだ。これこそ温暖で湿潤な日本の柔らかい闇だという、キャンドルもいらない、お湯を少しぬるめにして電気を消すだけ。初めはまごつくかも知れないが、すぐ慣れて闇とお湯に浸かっていることがどんどん心地よくなって母の胎内にいるような安らぎを感じるのだという。

さらに闇の世界を味わいたければ、夜の山登りなどの闇歩きが一番らしい。しかしハイキングの経験薄な人が夜の山に入るのは危険である。そのために準備期間としてナイトハイクのツアーなどに参加するのも一案だ。夏の夜の森は濃密で、森に棲む生き物たちの息づかいを感じる、蝉の幼虫は白く羽化して夜鷹や鵺や時鳥の鳴き声が聞こえるという。月下に照る広葉樹は青白く月がゆらゆらと漂い、針葉樹の針葉をすり抜け地面に届いたかすかな月は、まるで発光生物のように光っていると中野さんは嬉しそうに話していた。
中野さんの話を聴いていると、森の闇はけっして怖くないことがびしびしと伝わってくる。怖いのは人の心に棲みつく闇だ、それを浄化するためにも緑深き森に分け入り闇夜の月と戯れることを一度体験してみようと思う。夏もあと少し、秋のナイトウォークもまた風流かも知れない。

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( 2016.08.17 ) ( 余白 ) ( COMMENT:0 ) ( TRACKBACK:0 )
Les limites de la quartiers

都内を当てもなく散策することが好きだ、街の中心地は人いきれでどっと疲れが出てしまう。だから住宅街をそぞろ歩く、うらうらとした季節、草花たちは春を待ちかねていたように一斉に花を咲かせる。眺めると、私が一番美しいと言わんばかりに花冠の重さに頭を垂れあざとい自信が見え隠れする。美しさの中に貪欲なまでの毒気をまき散らし、あられもない姿で虫たちをおびき寄せ、昆虫たちとの契りを交わす。
“花は真昼間に太陽といとなみをする”詩人であり、批評家、翻訳者であったルードルフ・ボルヒャルトの言葉だ。花と庭と人間の交感の諸相を隈なく描いた、まさしく古今に類例をみない人物だ。花は生きる場所を定められている代わりに、だからこそあらゆる地上の生物の内でもっとも移動しなくてはならない。夢と記憶、願望と様相、そして比喩と象徴の様相を呈した希有な作家である。このようなことを書けるのも馬齢を過ぎてからである、花を愛でることなどまったく関心がなかった、花に一瞥し、じっと花弁を観る、生々しいと思った。街中から少し外れると小さな”庭園”がいくつもある、暗渠となった遊歩道に咲く草花、コンクリートの割れ目から抜け出す強靱な花、塀を浸食するかのように生える花、我を忘れて見入ってしまう。妖艶で色香に包まれた美しさに、なぜ気付かなかったのだろうと今頃になって思うのだ。
その時、ふと気付いたことがある。普段は目もくれない住居表示板、この表示板を見る機会があるとすれば、初めて訪ねる家ぐらいだろう。スマホやカーナビが幅を利かせているとはいえ、最終的には住居表示板が決め手となる。よほどマニアでない限り住居表示板を見ることなどない、それくらい忘れ去られた存在なのだ。例えば渋谷区を歩くとする、すると他の区が重なり合って境がどこか見当たらないことがある、気に留めなかったが都内23区には不思議な空間が存在していたことに驚く。区によっては住居表示が2区隣り合っているものもあったりする、これはまさしくトマソンやマンホールの蓋、看板などを発見し考察する、赤瀬川源平をリーダーとした”路上観察学会”張りの出来事だ。さしずめ”区界(くざかい)学会”とでも名付けてみようか。それを楽しむには1人ではつまらない、南伸坊、飯村昭彦、鈴木剛、田中ちひろ、森伸之と言ったニッチな仲間が欲しいものだ。
世界に目をむけば、国境での争いが後を絶たない、今や1つの国が分断されようとしている国もあるなんと嘆かわしいことだろう。ひいては自国の領土でありながら、第三国が強権を発し我が国の領土だと主張し脅かす国もある。そこへ来ると23区の区界は何事も起こらず、ましてや領土奪還などと口を尖らせることもない平和な共存共栄の区界だ。区を跨いでも逮捕されることもなく、江戸時代の関所のように通行手形もいらない、安心して往来ができる23区の区界である。
ネットで区界と検索すると、岩手県はJR東日本の山田線に区界駅にヒットした、何か意味ありげな駅名に誘われ謂われを調べてみたが何も記されていなかった。県境なら分かるが区界とは、これまた妙なネーミングであった。
東京都の境界線を一周351km、名古屋に匹敵する距離になる。過去に自転車で境界線をサイクリングしてみようと一大決心したものの、結局意志の弱さでポタリングに終わったことがあった。今のところ、区界ポイント箇所は渋谷区と世田谷区、そして目黒区しかリサーチ出来てない。リサーチと言っても百パーセントではない、いまだミステリアスなゾーンがあるやも知れぬ。
ここに取り上げた写真は、世田谷区から目黒区へと変わる区界、因みに手前が世田谷で右側は目黒区である。

目黒世田谷区界

仮に、この地点で区の移動の際に通行手形でも発行すれば、また東京の散歩も違う視点で楽しむことができる……と、思うのだが。それともただの物好きの集まりだと揶揄されるのが落ちだろうか、いずれにしてもこのコラムを読んで頂いた諸氏は一度眼を大きく開き身辺を探るのも一見の価値あり。


( 2016.06.09 ) ( 余白 ) ( COMMENT:0 ) ( TRACKBACK:0 )
食道楽の風景


ドラマが面白くない、ここ二十数年テレビドラマを殆ど見ない。ドラマと言えばサスペンスもの、あるいは原作が漫画、はたまた人気タレントドラマと言った具合に、こちらの食指を動かすものとは逆行し不如意なものだ。その原因は当方のオツムが依然と旧弊のままフリーズ状態、それも一理あるかも知れない。それは映画や演劇にも同じような感覚を持つ、昔は良かったなんて言うつもりもない、それこそ野暮と言うものだ。感じるのは、作り手側の品不足、つまり演出家の乏しさも要因のひとつになるだろう。デジタル時代になって映像技術は一段と進歩し日本のテレビ局もVFX(CG処理)など取り入れたりして、新規開拓をしているけれどもその頑張りようがはっきり見えてこない。PCの登場によりいささか情報のスピードが速くなり、若者に媚びようとすればするほど臍を噛むきな臭さが垣間見られる。
若者のテレビ離れは著しいと言われている、その中でテレビの方向性はどこに視点を当てるか、売れ筋のタレントを使えばレーティングは取れる、ある種”下手な鉄砲も数打ちゃ当たる”式の胸算用。いつまでこのスタイルを踏襲していくのだろう、韓流ブームも底値をついたし、そろそろ新たなドラマツルギーを見てみたい。

パティーナ22



ドラマと言えば向田邦子さんが最初に浮かぶ、秀逸だった。遅筆で有名だったらしいが、向田邦子さんが描くドラマは大人の色香を醸し出し、時に生々しく妖しい陰を落としながらも引き込まれる作品が多かった。その遅筆で面白いエピソードを元NHKディレクター深町幸男氏(あ・うん、続あ・うん等)が雑誌で書いていたことを思いだした。ドラマのタイトルは忘れてしまったが、主演は森光子さんと小林桂樹さん。いつもの如く台本が遅れに遅れたという、ディレクターは出演者たちに作家急病のためリハーサルは中止と告げた。リハが無くなったことで小林桂樹さんは帰宅し、夫人と共に近くに食事へ出かけたという。病気で伏せっているはずの向田さんが誰かと談笑をしているではないか、小林さんは気付かぬ振りをして、離れたところに席を取った。しばらくすると向田さんも気づき、互いに声を掛けづらい雰囲気であったが、彼女から近づきリハーサル中止になったことを謝罪した。すかさず小林さんは”内緒にしておきますから”とこたえたそうだ。その数日後向田さんから花が届けられた、”くちなしの花”とカードが添えられていたと言う。この辺りがなんとも粋で強かでしゃれっ気のある向田邦子さん、遅筆であったけれども気配りが異常なくらい強い人だったのだろう。
昨年、不慮の事故から33回忌を迎え、書店には書籍と彼女にまつわるエピソードを盛り込んだ雑誌で溢れていた。”向田邦子”と表題が付いたものは、つい手に取ってしまう、この人気を二分するのは太宰治と向田邦子以外ないではないかと感じる。”虎は死して皮を留め、人は死して名を残す”と言う諺があるがこの2人はその代表格ではないだろうか。太宰と向田、共通点は男と女の”つぼ”を知っていたような気がする。人間の醜さ、儚さ、弱々しさをこのお二方は人並み以上の鋭いアンテナを持っていたのだと思う。
向田邦子さんの小説やドラマはつとに有名だが、趣味嗜好に特別な関心を持っていたこともよく知られている、そのひとつに”うの抽斗(ひきだし)”がある。個人的に彼女の秘密を覗くように買い漁ったことがあった。”霊長類ヒト科動物図鑑”のエッセイにこう書いてある、”「う」はうまいものの略である。この抽斗をあけると、さまざまの切り抜きや、栞が入っている。仕事が一段落ついたら、手続きをして送ってもらいたいと思っている店のリストである”と。
中身は津々浦々の特産物、老舗の味等々、よくも集めたと思うほどスチール製の事務整理箱にきれいに畳んだものから少し破れかけた包装紙が無秩序に収納されている、この辺りも向田さんらしい。部屋はきちんと整理され行き届いているが、本の整理や机上整理だけは苦手らしい。忙殺の中でどのようにしてうまいものを見つけたのだろうと思っていたら、保険会社勤めであった父親の部下たちが転勤先から土地土地の名産を送ってきたのだそうだ。自ずと彼女の口は肥え、食道楽の土台が出来たわけである。子どもの頃からうまいものを食べていたのだから年季は相当なものだ、また父親も彼女に負けず劣らず食いしん坊だったとか。それが高じてかどうか定かではないが赤坂に妹の和子さんと始めた”ままや”という小料理屋を開いたことがあった。仕事柄近所にあったその小料理屋に何度も通った、それは何を隠そう向田さんに会いたいからだった。カウンターにはいつも和子さんがせわしく働いていたが、当人は一度もお目もじしたことはなかった、そして”ままや”は16年前に惜しまれながら姿を消した。トマトの青じそ和風サラダ、無花果酢みそかけ、若布の油炒め、まさしく向田邦子さんそのものの味だったのだと今にして思う。
51で歴史の幕は閉じてしまったけれど、彼女の遺したあらゆるものは永遠に消えることはないだろう。


( 2016.04.29 ) ( 余白 ) ( COMMENT:0 ) ( TRACKBACK:0 )
アートは故郷を救うのか……福島を離れた友へ


東日本震災が5年目を迎えようとしている、町の中心部は瓦礫や崩れた家が片付けられ道路も整備された。だがいまだ町の復興は依然として進んでいるようには思えない。波に呑み込まれてしまった家々……木くずと泥にまみれた土地だけが残り、人々の長い歴史に刻まれた思い出は自然という牙に打ちのめされてまった。震災の爪痕は、風化の景色に変わり田畑は雑草に覆われ、人々はひとりそしてまた一人と生まれ育った故郷を離れていく。
瓦礫の山から復興し、新たな町が生まれていることも確かだ、だが福島だけは復興どころか放射能汚染の処理に苦しみ、出口が見えない状態だ。そしてとうとう放射性廃棄物を保管する中間貯蔵施を、双葉町と大熊町は汚染土壌搬入の受入を決定した。
夕景


この大熊町に友人Uが住んでいた、Uは高校卒業までここで生まれ育った。太平洋を望む所にUの家はあった、気候も温暖で肥沃な土地に恵まれ農作物はふんだんに穫れた。Uは高校を出ると東京の大学へ進学し、卒業後は翻訳会社に就職した。Uとの出会いは翻訳会社だった、知り合って30年は経つだろうか。Uと知り合うまでは大熊町の存在すら知らなかった、観光スポットを見ると海と山に囲まれた風光明媚な地域であることを後に知る。
その数年後、仕事がらみで知り合ったのもつかの間、会社を辞めてしまう。Uにはふるさとに帰り事業を興す夢があった、カメラのレンズ研磨の会社である。それを実現するためには修練が必要で、千葉のレンズ研磨会社へと転職していったのだった。土日はふるさと大熊町に帰り、レンズ研磨の作業場を作り研磨の腕を磨いていった。そして結婚、しばらくは千葉と大熊町を行き来しながらの生活が始まる、やがてUは2人の娘を授かる。Uは結婚後、暮れになると必ず餅を送ってくれた、Uの父親と杵で餅をつくのである。Uの田圃で収穫した餅米で餅をついてくれる、種類は白もち、豆もち、ゆかり、青じそ、青のり、紅もちと大きな段ボールに餅がぎゅうぎゅうになるほど詰められ送られてくる。そればかりではない、餅と共に野菜も入っているのだ、大根、自然薯、さといも、白菜等々全てUの畑で穫れたものばかり。近くのスーパーで買ったものとは比べものにならないほど新鮮で甘味がある野菜、餅も野菜も格別だった。それもあの福島第一原子力発電所事故前までは……千葉と大熊町の往来がなくなり敷地内に新居を建て、そして法人を設立しようやく軌道に乗ってきたところに、あの3月11日の東日本大震災に見舞われてしまったのだ。Uは言っていた”地元に勤め口が少なく、働くと言えば原子力発電所しかない。少しでも働く場所を提供できたらと、そのために会社を興した”と物静かなUは笑顔で話してくれた。
当時、私は国会中継を見ていた。2時40分、突然大きな揺れと共に地鳴りのような音がし、国会中継からニュース速報特番へと画面が切り替わった。画面からは尋常ではない様子が伝わってくる、揺れの強さに戦き外へ出た。すると自宅前の道路が波打っている、過去に1度も見たことのない風景だ、下校帰りの小学生たちは打ち震え立ち止まって泣いている。空は灰色に染まり、淀んだ空気が流れこの世の終わりかと思えるほどの陰鬱さが漂っていた。
テレビからは津波で町を襲う画面、そして原子力発電所の異様な様子が映し出されている。心が震えた、そしてUのことを思った。携帯へ連絡する、当然回線はパンク状態となり繋がらない、それでも携帯を鳴らし続けた。
4月初旬PCにUからメールが届いた、”大熊町は4/3日、4日、避難所の移転があり○○体育館の避難者の移動は3日でした。私と父、母の3人は○○ホテルに振り分けられました。7月までの予定です、移動前にスクリーニング検査を受けなければならず、体育館は1日検査ということで急遽千葉からレンタカーを借りて対応しました。4日に滞在に必要な買い物をするため、ふもとの猪苗代町のスーパーにでかけ午後8時ごろ新潟にいる妻と子どもたちに会いに行きました。千葉には昨日午後4時ごろ着いて仕事をしています。ホテルには偶然ですが父と母の友人が大勢合流したようで、2人とも感激しています。このホテルなら私が千葉で仕事をしていても安心ですので、原発の動向もありますが7月まではこの状態で様子を見ようと思います”とあった。家族と散り散りばらばらになっての生活、想像に余りあるほどの深刻さだ。だがUは一言も不平不満も言わず冷静に進捗状況を知らせてくれた。この現況になんの手助けもできない自分がもどかしく、自身の非力さを恨んだ。
3年目を迎えた某日Uからメールが届いた。3箇所生活(千葉・福島・新潟)していたU家族は、新天地の茨城県へと移住していったことが綴られていた。両親は仮設住宅からいわき市に永住の地を求めたという、Uは両親を説得したが県外へいくことを望まなかった。Uは原発事故に対して一切触れてない、会社も生まれた土地も、農地も全て失くしてしまったのに彼のメールは明るいのだ。中学1年と小学5年になる娘さんが県の作文で知事賞を受賞、もうひとりは地区大会のテニスで優勝し全国大会を目指していると。Uからは何一つ不満が聞こえてこない、慣れない土地で家族は直向きに生きている、頭が下がる思いだ。メールの末尾にこんなことが書かれていた。
“これまでアートとはまったく無縁な生活を送ってきましたが、ふとしたきっかけで福島藝術計画というサイト(http://f-geijyutsukeikaku.info)を知りました。東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業です。アートで心のケアと復興・復旧を支援していこうというプロジェクトが福島と東京そして公益財団法人東京都歴史文化財団の三者が共催し立ち上げたようです。ふるさとを離れてしまいましたが、心の傷を癒やすには時間が掛かります、その傷を快復する力がアートにあったなんて想像だにしていませんでした。
そこにはこんなことが書かれています。
「福島の未来を担う子どもたちが、ふるさとの自然や文化を体験し、心豊かに成長していくこと。福島県ならではの多様な文化を地域の隔たり無く分かち合い、もう一度その素晴らしさを互いに見直すこと。福島の現状や未来のことを考え、創造する場を持つこと。福島の宝や人の思い、そして大切な何かをつなぎ・つたえていく。そうした動きが、福島の復旧・復興に向けて大きな力になると信じ、「福島藝術計画×Art Suppot Tohoku-Tokyo」は前進します」と。この文言は福島県人にとって勇気づけられます、私たち家族はふるさとを離れてしまいましたが、いつか戻れることを願って止みません。また、チェルノブイリ原発事故被災の人々とともにアートで発信する日本人女性カメラマンのサイトを見つけました。(http://www.apch.jp/jp/artproject/index.html)。”

大人も子どもも手に負えない深い心の傷を負ってしまった、私たちはその痛みを頭で理解するのではなく、身体で感じとるものなのだと思う。闇を除去するには時間が必要だ、アートに西洋医学のような即効性はないが、きっとじわじわと温かなものが心のなかに染み入っていくことだろう、ピカソが描いたゲルニカのように。”牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。……もし私の絵の中の物に何か意味をもたせようとするなら、それは時として正しいかもしれないが、意味を持たせようとするのは私のアイディアではない。君らが思う考えや結論は私も考えつくことだが、本能的に、そして無意識に、私は絵のために絵を描くのであり、物があるがままに物を描くのだ。”とピカソは呟いた。アートでふるさとが人の心の拠り所となり、それによって町が新たな再生と創造を作り出す、そんな福島をはやく見たい。


( 2016.02.16 ) ( 余白 ) ( COMMENT:0 ) ( TRACKBACK:0 )
原点は平凡パンチだった


川久保玲さん、故ファッションモデルの山口小夜子さん、大橋歩さん、この3人に共通するものがある、それは髪型、ボブカットである。各々強烈な個性の持ち主で、いつからその髪型になったかは存じ上げないが、その一人大橋さんが代官山で個展を開いた。
代官山 蔦屋書店が2周年を迎えるにあたり、それを記念しイラストレーターの大橋歩さんの個展が11月6日〜12月5日まで催されている。好きなイラストレーターの1人と言うこともあり、ワクワクしながら会場に足を運んだ。
大橋歩さんと言えば、まず頭に浮かぶのは”平凡パンチ”の表紙だ、最近の雑誌でこれに似た男性雑誌はあるだろうか、ファッション面とセクシーなものを中心とした週刊誌だった。思春期の頃と言えば、ファッションに目覚め異性にも興味を示す年頃である。ネットなど存在しない時代に、流行のものを知るにはこの雑誌が打って付けだった。当時流行の発信元と言えば、石津謙介ブランドのVANもう片方はスタイリッシュなJUNと言うブランド、この2社が若者の人気を二分していた。VANが東部の名門大学アイビー・リーグを基調としたデザインで、JUNはヨーロピアンスタイル路線を行く、互いに雌雄を決するほどではないが流行を気にする青臭い若者どもは何れかの衣服を着、ある種の恍惚感に浸っていた。かく言う私もそのひとり、チノパンの色がどうしたのとか、シャツはボタンダウンが基本だ、靴の基本は、ネクタイはレジメンタルでなければ云々と夢にうなされたようにバカなことを口走っていた。今思うと気恥ずかしさが先に立つ、10代は一種の麻疹に罹ったようなものであった。

平凡パンチ、大橋さんの描くイラストはソフィスケートそのもので、若者を引き寄せるのに充分な雑誌であったことは間違いないと思う。この表紙と並んで、高校時代時折求めていたのが”メンズクラブ”だった、その中に大橋さんのイラストがここでも載っていた、一目で”大橋歩”と判ってしまう、これは凄いことである。平凡パンチで、彼女が描く男子の顔が印象的で今もなお気になっていることがある。黒味がかった顔、いや黒と言うよりブラウン色と言った方が良いかも知れない。なぜにこのような色合いにしたのか伺ってみたいところだ。顔に強めの配色を施すと言うのは、スポーツマンを意識してのことだろうか、彼女の描くイラストの対象物はどちらかというとアイビー・リーグ色の印象が強い、表紙に登場する人物像は短い髪、細身のパンツ、ジャケットもナチュラルショルダーという風に、あの”JUN”とは一線を画す、ご本人も当時はアイビ−・リーグ派だったのだろうか、と勝手に推測してしまう。それとも、平凡パンチという名前故に、インパクトという視点から見ればJUNの色合いでは弱いイメージになってしまうか、あの表紙はヨーロッパに軸足が向いていたものではなく、アメリカを意識していたものだ、と思う。
VANメモ


平凡パンチと言えば、団塊世代を象徴する雑誌だった、残念ながらその世代の範疇には属さないが、時々書店で立ち読みしたり買ったりもした。
週刊平凡パンチの表紙のイラストを創刊号から7年間もの長きに渡り大橋さんは描いてきた、その作品数は390点にも及ぶ、さらに毎号コラムを掲載していたと言うからそのパワーに驚かされる。たとえ非凡な才能を持ち合わせていても、週刊誌の表紙を1週間の中でアイデアを絞り出すこと自体至難の業だと思う。否、まるまる1週間あるわけではない、アイデア〜製作〜印刷までの実の製作日数は3日あるかないかだと推測する。知力・体力は個人差がある、プロとしての生命線はいつもぎりぎりのところにあり、常に一定の水準が当然のようにのしかかってくる、イラストレーターは画家ではない、市場原理が働くビジネスモードの世界である。アマチュアは時に素晴らしいものを描けるが一定ではない、夢うつつのなかで描ければそれに越したことはないが、プロとしての自覚は常にスイッチが”オン”の状態でなければならない。その才能と力量を絶やすことなく73歳となる今日まで続けているというのだから、凡百の人生を歩んできた我が身からすれば、ただただ敬服と言う言葉以外見つからない。

現在大橋さんは雑誌「Arne(アルネ)」と言う季刊誌を編集・発行されている、それも62歳の時に立ち上げたと言うのだからこれまた驚きだ。大橋さん曰く60歳頃から仕事量が少なくなってきたらしい、これだけ実力を以てしてもそうなのだろうか。かつてはクライアントから”自由に表現してください”と言われたが、近年はクライアントからの要望が強くなり”こんな感じで描いてください”になったと言う。それにより、自分らしさを発揮できなくなり、自分のやりたいことを目指そうと思い立ち、それがこの雑誌の創刊に繋がった。当初の発行部数は3千部だったが、今では3万部も発行されていると言う、この雑誌のコンセプトは”面白いと思ったことしか掲載しない”大橋さんらしい言葉だ。
精力的に駆け回る大橋さんのこれからの動向が楽しみである。


( 2016.02.12 ) ( 余白 ) ( COMMENT:0 ) ( TRACKBACK:0 )
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